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2009年 01月 28日
アヤが残していった絵は、片足でつるっぱげの少女の絵だ。
2005年、アヤは骨肉腫で、右足を切断。その後抗がん剤を投与したために髪の毛はすべて抜け落ちていた。6歳の少女にはあまりにも過酷な出来事だった。 普通、こんな自画像は描きたがらない。 アヤが足を切断することになったとき父はうろたえた。 彼女の足は、2度の手術で、付け根から切り落とされてしまったのだ。 ヨルダン政府は、無償で手術を受けられるように手配。その後の化学療法もキングフセインがんセンターの方で負担した。10ヶ月ほどの闘病生活が無事に終わると、アヤはバグダッドへ戻っていった。ヨルダンは物価が高く、アヤの家族は、病院からも離れた下町のぼろアパートで暮らしていた。それでも、生活費に困り、バグダッドに帰る交通費を捻出するのに精一杯である。 イラクからの患者は通常は、何らかの支援を受けて、がんセンターの近くのそれなりのアパートに住む家族が多い。アヤは、義足をつけ始めたときは、ぎこちなくよく転んでいた。しかし、今ではすっかり義足にもなれて、ひとりで機用に走り回る。 以前は「体育の先生になりたい」と言っていたが、最近では「お医者さん」 時々、街中でショーウインドウのドレスをみると、足を気にして「私は結婚できるの?」とお父さんに尋ねる。お父さんはそういうときが一番つらいと言う。 アヤの義足はよく壊れるし、身体が成長するので、調整が必要だ。しかしそれすらもバグダッドでは出来ないと言う。半年に一度アンマンにやってきて義足の調整とガンが再発していないかの検査をする。JIM-NETの支援がなければ、続かない。 アヤの両親はスンナ派とシーア派に分かれている。バクダッドで宗派対立が激化したときは、家の中にも武装した人たちが押し入り家族に銃を突きつけて名前を聞く。名前で宗派がわかるのだ。遊びに来ていた親戚がひとり連れ去られ身代金を要求された。親戚中で集めるがとても払えない。ひどい拷問を受ける。イラクの中はめちゃくちゃになっていた。 しかし、ここに来てバグダッドの治安はよくなっているという。数々の困難を乗り越えたアヤが描いた自画像。もう一枚は、両足で立っている。髪の毛もしっかりとお下げに束ねている。義足が直ったうれしさ。そして、生きているうれしさがその絵には描かれていた。 きっとこの子は、ほかのガンで苦しむ子どもたちを勇気付ける、そういう存在なのだろう。 この6年近くで死んだイラク人の数は約10万人、一方アメリカ兵は4000人を越えている。 しかしこの差は大きい。 そして、アヤの義足のぼろさと、写真の帰還米兵の義手の素晴らしさ。この差も多い。 イラク期間米兵の多くがこの戦争を非難し始めた。大儀なき殺戮に自分たちが利用されしかも手足をもぎ取られた。この責任は誰にあるのか。 しかし、あえて言いたい。本当の犠牲者はイラクの市民。 アメリカが新しい兵器を開発し、兵士が死なないような戦争を思いついたとしても、イラク人は殺され続けるのである。 私たちは、チョコレートキャンぺーンを通じて、遠く離れたイラクの子どもたちの命の重さを伝えている。改めて NO more War!と叫びたい。 さとうまき
by jim-net-news
| 2009-01-28 05:29
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