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2008年 11月 02日
ヨルダンとイラクの国境に位置する難民キャンプがある。そのキャンプはイラク側でもなく、ヨルダン側でもない、ノーマンズランドと呼ばれる緩衝地帯に位置している。ここには194名のクルド系イラン人が難民生活を送っている。周囲はまったく何もない土漠。夏は太陽が強烈に照りつけ、灼熱地獄となり、冬は冷たい風が吹きすさぶ極寒地帯となる。彼らはこのような荒れ果てた土地で4年間もくらしている。未だに彼らの移住先は見つかっていない。こうして2つの線に挟まれて行くことも、帰ることもできず苦境に喘ぎ続けている。アンマンの赤新月病院へやってきた彼らの様子をUNHCRのスタッフと一緒に見に行って最初に言われた言葉は
「こんなところに俺たちを4年間もほったらかしにしといて人道支援団体なんて名乗るな!」 という厳しい言葉だった。しかしその通りだろう。 病気で緊急処置が必要だと思われる患者がICRCとUNHCRの庇護のもとアンマンの赤新月病院に運ばれてきた。みんな幼い子供たちである。アリヤーン・アズィーズ(男9歳)サリタ(女2歳) ジョワーナ(女9歳)シャイマ(女10歳)。この内、アリヤーンとサリタは前回も治療を受けるためにアンマンにやってきている。 ![]() アリヤーン(目のガンが疑われている) 彼らにはそれぞれ、父親が付き添いとなって入院中看護をするのだが、それぞれの病室の前には見張りが付き彼らが病院の外へ出ることはできない。できることといえば、カフェテリアにお茶を飲みに行くくらいのものである。入院してから4日目の今日はさすがに疲れが出始めているようだった。 ![]() ジョワーナ(肝炎炎を患っていたが現在が良好) 誤解を招きやすいのだが、ヨルダン、イラク国境で難民キャンプというと、イラク戦争で発生したイラク人難民だと思われそうだが、そうではない。まず彼らはクルド人である。さらに言えばクルド系イラン人である。彼らの難民生活は2003年のイラク戦争や1991年の湾岸戦争ではない。1979年のイラン・イスラーム革命に始まる。その時から彼らに対する迫害が始まった。なぜ迫害されたか。シャイマの父はこう語ってくれた。 ![]() シャイマ(尿道炎を患うも現在は回復)と父 「私たちは、[ヤルサーニーヤ(注)]というイスラームとは異なる少数派の宗教を信仰しているためです。パフレヴィー朝の時代が終わり、イスラーム革命が起きた後から我々に対する迫害がひどくなりました。ホメイニ氏は少数派の権利も認めると発言したにも関わらず、このようなことが我々に対してなされたのです。」 その後、もともと住んでいたカルマンシャ(イラク国境付近、イラン西部に位置)からイラクへと彼らは避難してきた。イラクではサダム政権のもと彼らは難民としてアルビール県へ避難し、そこからアルターシュキャンプ(イラク、アンバール県に位置)へ移り収容された。3~40.000人のクルド系イラン人がここで難民生活を送ったのだという。 「アルターシュキャンプで生活していた頃はまだ良かったです。もちろん制限はありましたが今の生活よりはよっぽどマシでした。私はキャンプからラマディーまで仕事のために通わねばなりませんでしたが、少なくとも働けていました。」 91年に湾岸戦争が起きて、イラク国民は経済制裁に苦しんだ、その当時キャンプで生活を送っていた彼らは比較的生活がしやすくなったそうだ。 「サダム政権が健在だったとき、私たちは至る所で難民証明書を提出しなければなりませんでしたが、経済制裁下ではそういった事がなくなったんです。その時が私たちの人生でもっとも楽だった時ではないでしょうか。」 しかし2003年にイラク戦争が始まり、サダム政権は崩壊。イラク内部で様々な衝突が起こるようになり、彼らの身も安全ではなくなった。そうして2005年に現在のキャンプ、2つの国境の間で彼らは生活している。現在UNHCRの方針としては、彼らをクルド地区に定住させる方向で計画を進めているようだが、彼らはそれを拒否している。 「クルド地区は我々にとって安全なところではありません。イラク国内では、我々を迫害したような武装勢力が自由に歩きまわれるんです。再び危険なところに帰るわけにはいきませんよ。」 キャンプの生活はとても厳しい。194人の人間がごく限られた中で生活を送らねばならない。また彼らの半数は子供である。今年の1月キャンプを訪れた時、そのときは大雪で大勢の人が暖をとれる狭い倉庫に集まって暗い顔で佇んでいたのを覚えている。今年もまたそういう季節がやってくる。 ![]() シャイマの父 「キャンプは学校もない。医者もいない。空以外にはなんにもない。我々は2つの国境の間で羊のように生きている。これが人間の生活ですか。人道支援が意味する人道とはどういう意味です。キャンプには他にも大勢の女性や病人がいるんです。本当の意味での人道支援、人権というものがあるならここから出してください。こここから私たちを出して下さい。そして本当の人間のように歩いたり、座ったり 呼吸したりしたいんです。」 4人の子供のうち、シャイマとジョワーナは検査の結果特別な治療は必要なく、すぐにでも帰ることができるということだ。目のガンが疑われていた、アリヤーンも前回の検査の確認だけでおそらく済むだろう。しかし小児糖尿病を患っているサリタはここでは治療不可能だ。血糖値は入院以降も落ちつかないままである。さらに彼らの不安を駆り立てるものとして、ここ数日で降った雨のせいでキャンプが水浸しになってしまったことだ。キャンプに残してきた家族のことが心配で、この父親達は一刻も早くキャンプに戻ることを望んでいる。 ![]() サリタ(小児糖尿病を患っている。ここでは治療が難しい) (注)ヤールサーニーヤ・・・アラブ人、イラン人からは(アハル・ルハック)とも呼ばれており、古いヤジズィード教の一派とされている。イスラーム教が普及する以前はほとんどのクルド人がこの宗教を信奉していたとされる。この宗教は現在大きく3つに分類され、ヤズィード、ヤルサーニーヤ、トルコ系アラウィー派となっている。(ウィキペディア・アラビア語版より) t
by jim-net-news
| 2008-11-02 04:43
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