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2016年 01月 30日
戦争とは、人権を奪い取られ、恥辱を与えられること。
米兵が、アブグレーブや、ハディーサで行ってきたレイプや殺人。 「イスラム国」がなぜあそこまで残忍なのかという問いの答えはまさにそこにある。 つまりは復讐なのだ。 復讐したい気持ちのある人は、アメリカが「イスラム国」への攻撃を強めれば、「イスラム国」の支持者が増えるだろう。 オバマ大統領は、「アサド政権は一線を超えた(化学兵器の使用)」といって武力行使をしようとした。一線を超えるとはどういうことか。確かに化学兵器は非人道的だが、比べるのは意味がないのだろうが、米兵のイラク一般市民への拷問やレイプや殺人は、超えてはいけない一線であったことを忘れてはいけない。 つまりは、えげつない戦争を仕掛けたのは、アメリカだった。 後藤健二氏と湯川遥香氏が、「イスラム国」に人質になり、解放の条件として出してきたのは、ヨルダンに収監されているイラク人女性サジダ・リシャウィの釈放だ。 サジダ?だれ?という気がした。 10年前の2005年11月9日、私はその日成田にいてまさにヨルダンに向かう飛行機に乗ろうとしていた。 飛び込んできたニュースは、アンマンで3か所のホテルで同時多発テロがあったというニュースだった。 サジダは、夫と一緒に自爆を試みたが、夫は自爆したが、彼女は失敗し現場を立ち去った。4日後にヨルダン警察に捕まっている。彼女が、爆弾を腹に巻き付けて説明している映像を私も何度かヨルダンのTVで見た。彼女の兄は、「メソポタミアのアルカーエダ」をたちあげたザルカウィの側近だったようだ。 イラク戦争で空爆された際に側近だったこの長兄に加えて2人の兄弟、前の夫も失っており、反米感情を持つようになったという。10年使く前の話だが、なぜ「イスラム国」がサジダの釈放を要求してきたのか。 彼女が、「イスラム国」がいうカリフ制の実現に何らかの影響を持つような人物だとは思えない。 彼女は裁判で「夫に自爆を強制されたが、私は誰も傷つける意図はなかった」と供述しているくらいである。 ヨルダン政府にとっても彼女の釈放は痛くもかゆくもないのではないか?かつて、イスラエルのスパイがヨルダンで捕まった時、交換は、ハマースの創設者アハマッド・ヤシンだった。 「イスラム国」の運動は、中世にさかのぼるカリフ制によるイスラム国家の樹立という大義と、アンバール州でアメリカから辱めを受けた個人的な復讐劇が混在しているかのようだ。 「いのちの花」という物語を完成するためには、戦禍の恥辱に耐えた人々の声を入れる必要があった。 北イラク(クルド自治区)には、「イスラム国」から逃れたスンナ派のイスラム教徒も最近は多い。ガンの患者でもルージャや、ラマディから避難してきている人たちが増えている。 ドゥアは、サッマラーから来たという。 サッマラーという響きは、かつてアッバース朝の首都がおかれていたこともあり、歴史を感じさせる。 前回書いたデ・パルマ監督のリダクテッドは、サマッラーが舞台である。 実話に基づいたストーリーだというが、実際はバクダッドの南のマフマディーアという場所で起きた米軍のレイプ殺人を素材にしている。監督がサマッラーを想定したのは、アスカリモスクの爆破事件があり、名前が知れていることなどもあったのだろう。兵士の一人が、宿営地のベッドで読んでいるのが、ジョン•オハラの『サマーラの町で会おう』という本。ほかの兵士たちはエロ本を愛読しているのに、一人だけ黒縁めがねで、インテリ風である。しかし、調べてみると、この本は、サマッラーが舞台になっているわけではない。死神が迎えに行く町というようなニュアンスだろうか。 サマッラーで生き延びたドゥアには、アザミの花を描いてもらうことにした。 確か、4月の終わりだったと思う。 イブラヒムを連れて、彼女の家に向かう途中、道端に咲いている花といえば、アザミくらいだったのだ。 折ろうとするが、とげが痛い。 イラクで生き延びるためには、アザミの棘も鋭い。 ドゥアのお父さんは、学校の先生だという。知的で温厚そうに見えた。彼女も厳しくしつけられているように思えた。一番下の妹が調子に乗って悪ふざけをするのをお姉さんらしくしかりつけている。 2013年9月27日、がんになった。皮肉なことに、スンナ派の人間にとって、バグダッドへは行きにくい。「イスラム国」の支持者だと疑われ、シーア派政権に逮捕される可能性を恐れるからだ。2014年6月20日に、アルビルで治療を開始。サッマラーを離れることになった。 「サッマラーの人たちは自警団を作り、「イスラム国」と闘っている。なので、町の中は大丈夫なんです。」 ドアは、先日サッマラーに里帰りした。 「道をよく知っているドライバーに頼んで家に戻ったんです。最初は、銃声とか聞こえてくるので、怖かったのですが、途中からなれました」 父は、 「娘のことを考えると連れて帰ってよかった。クルドの人たちは親切にしてはくれますが、やはり環境が違いすぎる。リラックスできたのだと思います」といった。 写真は上から絵を描くドゥア ![]() 2005年、ヨルダンはテロ後、ヨルダン人が一つになって団結すべきだとし、赤いカフェィーアを改めて団結のシンボルとした。↓ ![]() テロが起きたラジソンホテルの壁面にメッセージを書き込む人たち。 ![]() 以下引用 http://saiki.cocolog-nifty.com/shoka/2013/12/post-5eb2.html 『サマーラの町で会おう』の作者ジョン•オハラ(1905-1970)も、むろん大酒飲みでしたが、この小説のもう一つの魅力は、その題名にあります。サマーラとはバクダッドの北にある町の名ですが、小説にはその名は一度も登場しません。ただ、冒頭におそらくモームの戯曲『シュペー』からの引用とみられる小話が掲げられているだけなのですが、それはつぎのようなものです。 バクダッドにある商人がいました。食糧を買いに召使を市場にやったのですが、暫くして召使は震えながら戻って来て主人にこう言いました。「ご主人様、たった今、わたしが市場にいたとき、人混みの中で一人の女に突き当たりました。わたしがふり返ると、突き当たった女が死神だということに気付きました。死神はわたしを見つけておどかすような身ぶりをしたんです。さあ、ご主人様、あなたの馬を貸してください。この町から逃げ出して、わたしは自分の運命を避けたいんです。わたしはサマーラへ行きます。そうすりゃ死神だってわたしを見つけやしないでしょう」その商人は馬を貸してやりました。召使はその馬にまたがると、力いっぱい拍車を入れ、急かせに急かせて彼は走りました。その後、その商人は市場に出かけて行って、人混みの中に死神を見つけました。彼は死神のところに来て、こう言いました。「なぜ、お前は今朝わたしの召使におどかすような恰好をしたんだ」「あれはおどかす恰好じゃありません」と死神は言いました。「あれはただびっくりしただけなんです。わたしはあの男にバクダッドで会って驚いたのです。というのもわたしはあの男とは今夜サマーラで会うことになっていたんですから」 モームの『シェピー』は理髪店に勤める中年の男が競馬で宝くじのような大当たりを当て、家族がその使い途 をあれこれ楽しく計画していると、突然、男はその大金をすべて貧しい人たちにあげてしまうという決断をする話です。驚いた家族は医師に頼んで男を精神病院に隔離しようとするのですが、その直前に男は心臓麻痺で死んでしまいます。実はその時、死神が男の前に現れるのですが、男は何とか死神をまいて逃げようとします。逃げようとしても駄目だし、もうあきらめるしかないということを男に納得させるために死神がこの話を持ち出すのです。モームはおそらく、ペルシャの神秘主義詩人であるルーミーの『マスナヴィ』からこの話を思いついたのでしょう。 #
by jim-net-news
| 2016-01-30 04:28
| チョコ募金
2016年 01月 29日
2006年2月、サマッラーにあるアスカリモスクが爆破された。
サマッラーは、スンナ派が多く住むが、このアスカリモスクだけは、シーア派にとっての聖地である。西暦836年から892年までの約50年間、アッバース朝の首都がバグダッドからサマッラーに移されたことがあった。その当時の町並みは世界遺産になっている。 シーア派のモスクが爆破されたのだから犯人はスンナ派の過激派だということになる。 しかし、一方で当時から、「黒幕は、イラクを混乱させ、米軍の駐留を長引かせたいアメリカ」「虎視眈々とイラクの派遣を狙うイラン」との陰謀説もささやかれた。 ともかく、このモスクが爆破されたことで、イラクの治安は一気に悪化してしまい、「宗派対立などイラクにはない。イラクは一つだ」という市民の声もかき消されていった。 実際、世俗的なバース党政権では、スンナ派とシーア派の結婚も一般的であったが、イラク戦争後は、宗派を理由に離婚する夫婦も増えた。サッマッラーは、熱い戦闘地区になっていった。 アザミの絵を描いたドゥアは、2001にサマッラーで生まれている。2年後にイラク戦争が起きる。 物心ついてからは、戦火が途絶えることがない。 2007年に作られた映画「リダクテッド 真実の価値」ブライアン・デ・パルマ監督作品は、サマッラーが舞台になっている。(ただし実際のロケは、ヨルダンだと思われる) 物語は、2006年3月に実際に起きた事件をベースにしている。14歳の女の子、アビルが、米陸軍兵5人から性的暴行を受け、一家4人が殺害された。 似たような映画はほかにもあり、当時の私は、片っ端からそういったものをDVDを買ったり借りたりしてみていた。家族からは、「やめてほしい」といわれた。 もう本当にアメリカ軍の蛮行には、うんざりしてしまったので、デ・パルマの映画はちゃんと見たかどうか記憶が定かではなかったので、改めて借りて見てみた。 アメリカが占領化で行ってきたこと。恥辱を受けた民は、復讐を誓うだろう。戦争を始めた側は、都合よく、「テロ」という名前で片付ける。 「イスラム国」が2014年にいきなり湧いてきて、アンバールを支配してしまったかのように言われるが、辱めを受けた民が頼りにしたものは、アルカーエダであり、イスラム国の前身に他ならなかった。 ![]() 当時のニュース「米兵によるレイプ・家族殺害事件で目撃者が証言」 Eyewitness testimony about US rape, murder of Iraqi family http://www.geocities.jp/uruknewsjapan/2006_testimony_about_US_rape.html イラク・レジスタンス・レポート 2006年7月1日 イスラム・メモは1日夜11時55分の速報で、米軍が強制捜査している3月のレイプ殺人事件に関する通信員の徹底追及レポートを発表した。 米占領軍兵士によるイラク人女性レイプ件数は既におびただしい数となって増えつづけている。多くの女性がアブグレイブその他の監獄で犠牲になった。他の多くの者も広大な監獄すなわち占領下のイラクをうろつく米軍の軍服を着たレイプ魔の餌食(えじき)になってきた。 しかし、レイプ事件の1つが最近になって表面化し、はずみなどではない残忍な蛮行をきわ立たせている。 2006年3月のある昼下がり、アメリカ兵10~15人の部隊がカシム・ハムザ・ラシード・アル・ジャナビ(1970年生、国営ジャガイモ倉庫の警備員)の家を襲撃した。アル・ジャナビは妻ファフリヤ・タハ・ムフシンと4人の子どもアビル(1991年生)、ハディル(1999年生)、ムハンマド(1998年生)、アハマド(1996年生)と一緒に住んでいた。 アメリカ兵はカシムとその妻、そして娘ハディルをその家の1つの部屋に連れ去った。アメリカ兵が来たのは午後2時頃で、息子のアハマドとムハンマドはそのとき学校にいた。アメリカ兵はカシムと妻と娘を部屋のなかで射殺した。カシムの頭には4発の銃弾が、ファフリヤの腹と下腹部には5発の銃弾が撃ち込まれていた。ハディルは頭と肩を撃たれた。 そのあと、アメリカ兵はアビルを隣の部屋に連れて行き、そして部屋の隅で彼女を追いつめた。そこで彼らはアビルを裸にし、10人のアメリカ兵が順番に彼女をレイプした。彼らはそのあとでアビルの頭を鋭利な物で殴りつけて(法医学の解剖所見による)気絶させ、そしてクッションを押しつけて窒息死させた。その後、彼らはアビルの遺体に火をつけた。 殉教した(殺された)一家の隣人はイスラム・メモの通信員に次のように語った。 「午後2時、アメリカ兵が殉教したカシムの家を襲撃した。彼らはカシムをとり囲み、銃声が聞こえた。銃撃はやがて収まった。1時間後、部屋から煙が出ているのが見え、そのあと占領軍の兵士が家からあわてて出てきた。彼らはシーア派のイラク国家警護隊と一緒に一帯を包囲し、そして近所の住民に、アルカイダのテロリストがこの家に入り家人を皆殺しにした、と説明した。彼らは私たちを家に入らせなかった。だが私が国家警護隊の兵士に、その家族の隣人だから(中に入って)彼らを見届けたい、そうすればアル・ハジ・アブ・アル・カシムに息子と息子家族のことを知らせることができると提案したところ、兵士の1人が私を入らせることに同意した。」 「それで家に入ってみると、最初の部屋でカシムと妻とハディルを発見した。彼らの死体は血まみれだった。血は身体から勢いよく噴出して、ドアの下から部屋の外まで流れ出てきていた。彼らを起こしてみたが反応はなく、すでに息絶えていた。」 その隣人はさらに報告を続けた--「ついで私はアビルの部屋に入った。炎が彼女を包んでいた。彼女の頭と胸が燃えていた。彼女は哀れな姿勢で横たわっていた。彼らは白いガウンを首までめくりあげ、ブラを引きちぎっていた。15分前には既に死んでおり、部屋の中は激しく燃えていたにもかかわらず、血が両足の間から流れ出ていた。彼女は死んでいた--神よ、彼女の魂を安んじたまえ。一目見て彼女だとわかった。彼女は顔を横向け、両手両足を縛られているのに、下半身が持ちあげられていたので、レイプされたのだとわかった。私は自分自身をコントロールできず、彼女のために涙があふれてきたが、しかし、すぐに彼女の頭と胸で燃えている火を消した。胸と頭髪、そして顔の肉が焼けていた。服で彼女をおおってやった。そのとき私は、話したり脅したりしたら、アメリカ兵が私を連行するだろうと気づき、そこでこの悲劇的な話の目撃者となれるように、自制して静かに家から出ることに決めた。」 3時間後、アメリカ兵が家をとり囲んで、その地域の人々に、この一家はシーア派だったので、テロリストによって殺されてしまったと語った。町の者は誰もその話を信用しなかった。なぜなら、アビルの父親は町で最も善良で高潔な人物の1人であり、シーア派でなくスンニ派だと知られていたからだ。誰もがアメリカ兵の話を疑ったので、日没時の礼拝のあと、占領軍兵士が4人の遺体をアメリカ軍基地に持ち去った。そして次の日になって、彼らは遺体をマフムディヤ病院に引き渡し、病院管理者にテロリストが一家を殺したと告げた。その朝、私は被害者の親類と一緒に病院に行った。私たちは遺体を受けとって埋葬した、神よ、彼らに慈悲をたまわりますように。」 隣人はさらに続けた--「そのあと、私たちは黙っていてはいけないと決心し、すみやかに復讐するようムジャヒディン(聖戦士)に要請した。ムジャヒディンは占領軍に対して2日間で30回の攻撃をしかけ、40人以上のアメリカ兵を倒した。だが私たちの血はまだ収まらず、それで意を決して、イラクの放送局だということで、アル・アラビヤTVに出かけて話をした。だがアル・アラビヤは私たちの話を意に介さず、私たちをウソつきだと決めつけた。アル・アラビヤは、自分たちの方針はアメリカ軍から出される公式発表に依拠しており、なんの権限もない話には踏み込めない、と述べた。これはアル・アラビヤの特派員アハマド・アッ・サリフが語ったことだ。それで私たちは地元の新聞社に行ったが、彼らは私たちがスンニ派でレイプの犠牲者がスンニ派の少女だからという理由で門前払いにした。だがレジスタンス戦士は私たちに、神はモスリムの血が流されることを許さないと言い、忍耐してがんばればアビルトとその家族を殺し姉妹の名誉が汚した者に罰が下されるだろうと言ってくれた。」 「アビルの母親が今年3月9日に私のもとにやってきて、夜は娘を泊めてやってくれと頼んだが、私個人は驚かなかった。彼女が牛にエサをやりに出かけるとアメリカ兵が彼女を見つめていたので、彼女は恐がっていたのだった。占領軍の指揮所がカシムの家から15メートルのところにあったので、私は母親の申し出を受け入れた。しかし率直にいって、彼女はまだ16歳のかわいい少女だったので、彼女の身の上に何か起こることはないだろうと思ったが、夜は彼女を泊めて、朝になって自宅に帰すことに同意した。占領軍の兵士が真昼間からこんな犯罪をやらかすとは、私たちは考えてもみなかった。」 隣人は最後に次のように話した--「アメリカ兵が6月30日(イスラム・メモの通信員が犯罪現場に行った前日)にやって来て、地域の人々にアビルの遺体を掘り起こして確かめほしいと頼んだ。そして私に目撃者として証言してほしいとも言ったが、私は正義のためならどこへでも出かけるつもりだ。」 ![]() ![]() #
by jim-net-news
| 2016-01-29 22:08
| チョコ募金
2016年 01月 26日
サマッラー出身のドゥアが治療のためクルド自治区のアルビルに来た直後、ドゥアはバグダッドでの検査が必要だった。どうやってバグダッドまで行くかを考えていた時に、携帯電話が鳴った。
「うちの娘も小児がんで、バグダッドで検査をしなければならない。一緒に行きませんか?」 と、ある小児がん患者の家族からだった。 さっそく、通院しているナナカリ病院で会うことにした。 ![]() そこに現れたのは、ドゥアと同じ歳くらいのリザンという女の子とその父親だった。クルド人のリザンの父親は、ドゥアの出身地であるサマッラーに13年間住んでいたことがあるため、アラビア語が堪能だった。 すぐに、バグダッドへの行程や日程を話し合った。 また、その時ドゥアの家族はアルビルに来て間もなく、まだ住むところもなかった。それを知ったリザンの父親が「我が家に来ないか」とドゥアの家族を2週間泊めてくれた。 そしてその後、リザンの父親が近所の空き家を見つけてあげて、ドゥア達は今の家に引っ越すことができた。 話す言葉は違っても、歳の近い2人は、すぐに打ち解けた。 時には、リザンの父親を介して話したり、お互いの言葉を教え合いながら話した。同じ小児がんを患いながら、励まし合って闘病を続けた。 ![]() 現在、彼女たちは抗がん剤治療が終わり、月1回の検査や体が痛んだ時に病院に通っている。 また、学校に復学し、ドゥアは国内避難民用の学校に、リザンは地元クルドの学校に通っている。 ドゥアは、お父さんがアラビア語の先生なので、自分も同じように先生になりたいという夢を持っている。 リザンは、数学が好きで、将来は医者になりたいそうだ。 放課後は、よくお互いの家を行き来している。学校での出来事などを話したり、テレビを一緒に見たりして遊ぶ。家族ぐるみの仲で、お互いアラブ料理やクルド料理を作って持ち寄ることもあると言う。ドゥアとリザンに好きな料理を聞くと、二人とも「ドルマ(香辛料で調理したお米を、中をくりぬいた野菜に詰めた料理)」が好きだと話してくれた。 訪問したその日も、リザンが遊びに来た。二人で出来上がったチョコ缶を眺めていた。 ![]() #
by jim-net-news
| 2016-01-26 12:37
| チョコ募金
2016年 01月 24日
今年のチョコ缶のために、「あざみ」の花を描いてくれたドゥア。
アルビルの中心地から車で20分ほど離れたマンザワ地区に、ドゥアと家族は1年半前から住んでいる。2015年末にドゥアを訪問すると、ドゥアが元気に迎えてくれた。灯りが付いておらず、前日から停電が続いているとのことだった。 サマッラー出身のドゥアは、がんを発症した2年前からアルビルのナナカリ病院に通っている。しかし、「イスラム国」を中心とする武装勢力により、アルビルとサマッラー間の治安が悪化した。そのため、ドゥア一家は治療のためにアルビルに引越してきた。 ![]() アラブ人のドゥアや家族は、アラビア語を話す。そのため、アルビルがあるクルド自治区では、語学の問題がある。ドゥアも現在学校に通っているが、地域にあるクルド語の学校ではなく、国内避難民用のアラビア語の学校に通っている。 ドゥアの親戚や知り合いの多くは、まだサマッラーで住んでいるという。治安が比較的落ち着いた2015年9月のラマダン休暇に、彼女たちはサマッラーに一時帰省した。「久しぶりに親戚や友達に会えて、とても嬉しかった」とドゥアが話してくれた。サマッラーの地元の人は日常生活を続けているが、仕事は少なく生活が大変のようだ。 サマッラーは螺旋式のミナレットが有名で、昔ドゥアも登ったことがあるとのこと。登っていくときは良いが、頂上に着くと地上にいる人がすごく小さく見えて怖かったそうで、その時のことを楽しそうに話してくれた。 ドゥアは、早く治安が良くなって、帰りたいと願っている。 #
by jim-net-news
| 2016-01-24 11:58
| チョコ募金
2016年 01月 07日
![]() 鎌田医師は、一年前と同じく、年末年始をイラクで過ごすことになった。あれから状況は変わっただろうか? 長期化するシリア内戦。キャンプの住民はパニックのようにヨーロッパに向けて移動を始めた。ローリン一家が暮らすアークレキャンプも40%がいなくなったという。 シリア難民と僕らはいう。それはシリアという国家の概念が先にあるからだ。しかし、彼らはクルド人であり、部族であり、そして家族が移住するに過ぎない。「イスラム国」は、近代的な国家の枠組みを無視して、存在している。そして難民たちは、もっと、原始的な移動を始めているのだ。 それを僕らが、シリア難民だの、イラク難民などといってももはや意味をなさないような気もしている。 1月1日、新年をむかえる。 アルビルのホテルの朝ごはんは、いつものようにパンとチーズとゆで卵。そしてレンズマメのスープ。 朝から小雨が舞う。 キャンプにつく。ここはかつて軍の施設だったところを利用している。学校のような建物なので、 テントのキャンプよりはずいぶんと環境はいい。 ローリンは、鎌田に緊張気味だった。 鎌田が、聴診器を取り出しあてがうと、それだけで病気が治ってしまうかのようにローリンが感じたかどうかは定かではないが、徐々に表情にほころびが見られたし、僕らはそう願っていた。 親父はというといつものように調子がいい。 「さあ、屋台をやろう」雨の中屋台を引いて難民キャンプの真ん中あたりまで押していく。 雨の中子どもたちが走ってやってくる。あっという間に屋台に人だかりができた。 「さむいんだけど、屋台はいいね。子どもたちはけんか腰で、どんどんくる」 鎌田は、喜びを隠せなかった。 豆を食べたシリア難民の親父たちもうれしそうだ。 「新年に日本から来てくれて、こんなイベントをやってくれて、うれしい。子どもたちの笑顔を見れることはうれしい。私たちがやってあげられることは少ないから。」 #
by jim-net-news
| 2016-01-07 20:14
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