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2008年 03月 07日
私は、 一貫して、このイラク戦争には、反対を訴えてきた。2002年、サダム政権末期にようやくイラクに行くことができたが、そこでは、子どもたちの目がきらきらと輝いていたのを思い出す。
その中でも、当時9歳だったスハッドちゃんの目がもう本当にきらきらとこぼれそうに輝いていたのを思い出す。 彼女が書いてくれた絵は、まず女の子。でも指が画けなかった。そこで、僕が、ほら、指は5本あるでしょと教えると、男の子が手をいっぱい広げて、女の子を守っているような絵を画いてくれたのだ。 これで、決まり!私は、その絵を日本に持って帰って早速、ポスターを作った。このポスター、結局、4万枚くらい作ったと思う。「イラクを攻撃したら世界は平和になりますか?」 ワールドピースナウの行進 ちらほらとポスターを持った人が! 戦争前、JVCはバグダッドで、日本のこどもたちの絵の展覧会を開催。 ワールドピースナウでは、多くの人たちが、「かわいい」といって、このポスターをもって歩いた。 戦争が始まると、彼女たちはどうしているんだろうかと心配したが、庭に防空壕を掘って生き延びた。 スハッドの父は、音楽学校の警備員をしているために、学校に住み込んでいた。 フセイン政権があっけなく崩壊した後、イラク人がびっくりしたのは、「アリババ」つまりは、略奪である。音楽学校にも暴徒が入りこみ、楽器を壊して行った。 「イラクはひとつ!」子どもたちは願いをこめて絵を描いた。 それから5年たち、子ども達の願いもむなしくイラクはばらばらになって殺しあっている。このようになる状況を子ども達は見抜いていたのかも知れない。 私は、絵本を作った。「お兄ちゃん死んじゃった」がそれだ。谷川俊太郎さんの詩にイラクの子ども達が絵をつけるという企画だったが、何せ、小学校が夏休みになってしまい、仕方がないので、誰もいない校舎で、スハッドの兄弟たちに集まってもらい、ワークショップを行ったのが懐かしい。あのころが一番平和なときで、彼らもめいっぱいの色彩を用いて、楽しんで絵を描いていた。 そして、スハッドも成長した。 バグダッドで元気に生きていることが何よりもうれしい。 この絵は昨年彼女が書いてくれたもの。 平和が世界で一番すてきなこと。 一緒に平和を作りましょう、と書いてある。 そう、一緒に作らなければ行けない。この5年間僕たちは何をしてきたのかな? 今回のポスターは、スハッドが5年前に書いた絵と最近の絵を組み合わせたもの。 バグダッドでは、さらに新しい絵を彼女が書いてくれたそうで、まもなく友人が国境に届けてくれるそうだ。 #
by jim-net-news
| 2008-03-07 14:37
2008年 03月 06日
3月4日の夜、イブラヒムに電話をする。私たちは、イラク人がヨルダンに入国できるか出来ないかのアイデアがなかった。
ヨルダンでも、内務省や計画省に聞いてみたところ、何度もヨルダンに入国しているのなら大丈夫でしょうという意見と、バスラにビザを発給する領事館のようなところがあるのでそこでビザを取ってくださいとのこと。イブラヒムがバスラで調べたところ、まだ、ビザ発給は機能していないらしく、旅行代理店では、JIM-NETの推薦状があれば大丈夫とのこと。 電話でイブラヒムは、楽観的で「大丈夫!大丈夫!」と明るい。 私は、バスラの病院からの推薦状ももらっておくように言ったのだが、「もうドクターたちは帰ってしまった。心配しなくても大丈夫」と楽観的である。 JIM-NETの事務所では、今までの経験もありそうも楽観的になれず、いろいろともしものときの対策を話し合ったが、「まあ、大丈夫じゃないか」と最期は楽観的にならざるを得なかったのである。 翌朝、イブラヒムから電話。「これから飛行機場にいく。」と連絡が入り、昨日ドクターの推薦状ももらえたらしく、声も弾んでいた。 しかし、到着する時刻の3時になっても電話連絡がなく、少し心配していたのだが、飛行機が遅れることはよくあることだからと、夜、近所にいるイラフ親子と一緒に飯を食っていたら、イブラヒムから電話が入った。 「今飛行場にいる。ヨルダンがいれてくれない」と情けない声で電話が入る。 こりゃやばいと、「どうすればいい?ともかくそっちに行こうか」うーんこれから飛行場に行くのかと思いながらも、「もう、どうでもいい」と投げやりなイブラヒム。ともかく、「代表がそっちにむかっていると入国審査官に伝えてくれ」と電話を切り、飛行場へ向かった。 飛行場に行く途中のタクシーでイブラヒムから電話。「無事に入れた」と声も高ぶっている。 「2時間待たされて、他のイラク人は怒りくるっていたよ。でもイブラヒム、冷静だったよ。お前も、怒っているのかと聞かれたけど、イブラヒム怒ってないとおとなしくしていたのがよかったのかもしれない」と事情を説明してくれた。 何は、ともあれ、これからイブラヒムが摘んできた「マツユキソウ」を見せてもらう。 #
by jim-net-news
| 2008-03-06 15:44
2008年 03月 06日
2002年、イラク戦争が始まる前からヨルダンにはイラク難民がいた。 とは言うもののほとんどが経済難民なので、支援らしき支援は受けられない。 私がJVCという団体で働いていたとき、ふとしたことから、UNHCRで働いている日本人と知り合い、ちょうどパレスチナ支援できていた吉野都看護師をボランティアでカリタスが運営しているクリニックに派遣するところから、話が始まった。 皆、イラクのことばかりに目が行き、本当に当時はカリタス以外都市難民の支援など誰もしなかった。多くは、労働者として最低限の生活を維持していた。 吉野都は、毎日クリニックにやってくる難民たちに寄り添っていろいろ話を聞いていた。 男たちは、一部屋に5-6人住み込み、警察のがさ入れが入ると逃げ回る。ビルとビルを飛んで逃げようとしたところ脚を踏み外して何とか壁にしがみついたが、ずるずると滑り落ちて、指の皮がずるずるになってしまった労働者。。イラク戦争が終わってから逃げてくる難民は確かに命の危険にさらされているが、当時にくらべると、若干経済的な余裕がある。 その当時カリタスには住み込みのお手伝いさんがいて、夫は脚を怪我していていつも引きずりながらしか歩けないから仕事も出来ない。何とかカリタスが、小さな住居を提供して、お茶くみをして生計を立てていた家族だ。 岩波ブックレットにはレイラという名前で登場している。 懐かしくなってカリタスに行ってみた。 しかし、そこにはもう彼らは住んでいなかった。かわりにエジプト人が、改装工事を行っており、土まみれになって働いていた。昔はイラク人もそのような肉体労働をしていたのだが、むしろヨルダンはそのようなイラク人の入国を拒否しているから、あるていどお金を持ったイラク人しかいなくなってしまった。隣の売店で聞いてみると、すぐ近くに移り住んでいるという。 しばらくあっていなかったので名前も思い出せなかったのだが、売店の親父が親切に新しい住居を教えてくれた。 彼らは再会をものすごく喜んでくれた。今は月100ドルのアパートの一室を借りて4人ですんでいる。物価が高騰しているヨルダンで、よく100ドルのアパートが見つかったと感心するが、意外とある。その代わり一部屋で、ぼろぼろだが。 なんとアメリカ行きが決まったらしい。 私の友人でアメリカ行きの切符を手に入れたのは2組み目だ。 もう一組は、イラクには入国できずに難民キャンプに入れられていたディアールの一家だ。がんの少女は結局、ヨルダンで命を落とした。遺族は昨年10月になってようやくアメリカへの移住が決まった。いずれの家族も、ヨルダンで苦労が耐えなかったし、最底辺の生活を送ってきたから、アメリカで幸せに暮らして欲しいとおもう。 シリアのダマスカスでは、UNが大規模に食料などの配給を行っている 5年間には見られなかった光景 配給品をもらってかえるイラク難民 アパートに戻る途中で、難民申請している別のイラク人に会った。 「今日面接があったよ。イラクでは、武装勢力に脅されたといっておいた」と自身ありげだった。 息子に何百ドルもしそうな携帯電話を買ってあげている。 私は、ひそかに、彼が私の友人の中で3番目にアメリカに行く切符を手に入れる人間にはなって欲しくないとおもった。なぜなら、もっと苦しんでいる友人がたくさんいて、彼らは何とか外国に行こうと、国境や、ノーマンズランドでテント生活を余儀なくされてるからだ。 援助業界では、もっとも援助が必要な人たちに援助をしなければならないといわれる。当たり前のことだが、難民を選んだりするのは権力者が恣意的に行ったり、政治的な事柄を含むから、なかなかそうは行かないからだ。 一方で、日本はもう少し、イラク戦争を起こした張本人として、難民の受け入れとかをすべきではないのだろうか? こどもたちのイラク (岩波ブックレット) イラク戦争の直前から、イラク戦争後をNGOの活動の中から出会った子どもたちの目線で書いた本。本当は大人向けにもっとたくさん書きたかったが、それでも、こどもたちの絵と写真のインパクトは強い。そしてNGOならではの、問題提起。 5年経った今、もういちど読み直して欲しい。 #
by jim-net-news
| 2008-03-06 08:25
2008年 03月 05日
合衆国政府関係者が土曜日に発表したところによると、先月の2月にアメリカが受け入れたイラク人難民の総数は444人で、一月と比較して、受入数が増加していると話した。(1月の難民受け入れの総数は375人)
しかしながら、イラク人難民受け入れの2008年度事業年度目標数は12000人であり、対応の遅れが懸念されている。 米外務省高官のジェームズ=フォリーによると、これまでにアメリカが受け入れた、イラク人難民の数は着実に増加しているとし、昨年11月以来から今までに、1876人の受け入れを完了したとしている。 ジェームズ=フォリーによると、ブッシュ政権が難民受け入れに関する対応の遅れに対して、批判を受けた後、状況の改善に努めていることを強調した。 昨年度において1607人のイラク人を受け入れており、前年度から2.2パセーント増加している。 Al rai daily news paper Monday 2008/03/03 アラブ・国際関連記事 アメリカが大幅にイラク難民の受け入れを表明したことで、渡米を希望するイラク人が増えた。中にはいわゆるなりすましもいる。特に米軍の通訳をやって大金を稼いだイラク人は、反米勢力から狙われるというよりはそのお金を狙った犯罪にあうことも。 私の知り合いはバグダッド大学で教えていたが、かつて米軍の通訳をやっていたために、シリアに難民として逃げた。脅迫状が3通も届いたといって、見せてくれた。米軍の通訳は割りのいい仕事だから、それなりに金を稼いでシリアにくる。シリア人のアパートのオーナーも貧しいシリア人よりは、イラク人に貸したがるんで、結果としては家賃が高騰する。シリア人の間ではイラク人には辟易してきている。「あいつらが来たから、俺たちの暮らしがしんどくなってきた」という声も聞かれる。 私の友人も結局はお金が尽きてイラクへを帰らざるを得なかった。 また別のヨルダンに5年も住んでいる友人は、「アメリカに行きたくてね!難民申請しちゃったよ」とうれしそうだ。米軍の通訳をやったことがあるのかと聞くと、「まあ、そういうことだ」とにやりと笑った。 数ヵ月後、審査はどうだった?と聞くと 「まあ、宝くじを買うようなものだからね。みんな申請しているから俺も申請してみただけだ」 という。彼は、事情があってヨルダン滞在のビザも持っていて、十分恵まれている。 本当に難民として保護されなければいけない人のところにはなかなか支援が届かない。それが現実。 写真はイラク国境とヨルダン国境にはさまれたノーマンズランドの難民。 医療も受けられずに何人かは死んでいる。 #
by jim-net-news
| 2008-03-05 06:10
2008年 03月 05日
イラクでは拡大した地雷区域が懸念されている。未だ取り除かれず埋められたままの地雷の数は約2700万個に昇るとみられ、世界中にある地雷のうち、4分の1がイラクに存在しているとされる。
イラク地雷除去委員会によると、危険だとみなされている地雷区域はイラク南の海岸部から、イラク、イラン、トルコの国境の三角地帯まで、およそ距離にして1270キロにも及ぶ。 イラク軍によれば、地雷区域の拡大は1970年代にまで遡る。イランとの国境争いの最中の1979年にイラク軍によって大量の地雷がイラン国境付近に埋められた。そして1982年イラク軍がイラク国内に撤退したときに、イラン軍のイラク領内侵入を防ぐ目的でさらに多くの地雷が埋め込まれた。 懸念されている脅威はこれだけはなく、アメリカ軍が2003年のイラク戦争で使用した爆弾も不発弾として残っており、数多く発見されている。このような不発弾は地雷の数を優に超えるとみられている。 とある国際機関のレポートによると、イラクだけが、地雷の危険に脅かされているわけではなく、世界64ヶ国に1億1千万個の地雷が残っているとされている。しかし、イラクにおける地雷の数は2700万個以上に昇るとみられ、最も多くの地雷が埋められている。 これらイラクの市民の生活を脅か地雷の撤去にはおよそ、2000万ドルが必要だということである。 加藤訳 AD-DUSTOUR 2008/03/04 私は、2003年にイランとの国境の町、マンダリ村に言ったことがある。 アブ・イラフに私が行った事のあるディアラ県ではマンダリ村ぐらいで、村の男たちの多くは、地雷を踏んだせいか、片足を失っていた。 アブ・イラフの話では、雨が降ったりすると山から土と一緒に地雷が流れてくることもあるという。多くはイランイラク戦争のものだが、5年前のイラク戦争では、クラスター爆弾が多く使用され不発弾としてのこる。地雷に続き、08年中にクラスター爆弾禁止の国際条約が作られることになっている。 ちなみに2007年、イラクはオタワ条約を批准した。 編集長 #
by jim-net-news
| 2008-03-05 05:44
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